「手 第1章」を未読の方は >> 8月に帰省してから1か月半。山は秋色に染まり、晩秋の風は、すでに冬の冷たさを内包している。 僕は黄金色の稲田の上を乾いた風が渡る中、ゆっくりと愛用のスカイブルーのロードレーサーを走らせていた。 ロードレーサー... 続きを読む »

昨年の6月下旬の朝、僕は高校時代からの親友であり山仲間である田口と、夜明け前に山小屋を出て、ヘッドライトの灯りで照らされた足元を確認しながら、濃紺の山の稜線りょうせんを黙々と歩いていた。 後ろを歩く田口と自分自身のふッふッと息を吐く音以外は、何も聞こえない静... 続きを読む »

くちなし

朝からの梅雨の初めの雨が止み、湿気を含んだ青い薄闇がビルの谷間に溜まり始めた夕刻の街。 ふっと微かに甘い香りが、客先から帰る私の足を止めさせた。 隣のビルにもたれかかるように建っている、木の格子窓が今どき珍しい木造の小さな町家の軒先のわずかな植え込みに、白... 続きを読む »

錦湯

銭湯に入ることを覚えたのは、20代半ばに金沢に住んでからのことである。 私が育った地は、現代いまでは、山を切り崩して建てられた細々こまごまとした住宅と点々と無節操に立ち上がるマンションの間に、僅かな田畑が残り、その残った田畑でさえも休耕田が目につく典型的... 続きを読む »

寒風とともに入ってきた2人組は、店内を見回すと残念そうに肩をすくめて、また、冬の街へと戻っていった。 平日の夜8時。 どこにでもあるチェーンのカフェの店内は混んでいた。 コーヒー豆の収穫から焙煎までを描いた素朴なイラストが壁一面を飾っている店の奥では... 続きを読む »

カツン。 小さな音が丸い窓の外から聞こえたような気がした。 巨大な潜水艇の分厚い窓に何かが当たったとしても、音なんか聞こえるはずはないのだけれど。 丸い窓におでこを付けて覗きこむと、ただ海底の暗闇を鏡として、ぼんやりとした自分の顔が映っているだけで、泡と... 続きを読む »

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若葉色に染まった山の中。 くるりくるりと渦巻きになったワラビが、杉の若木の間にすっくすっくとたくさん伸びている。 小さな手でポキポキ折って、夢中になって山の斜面をどんどん上がっていく。 ふっと横切った影につられて空を見上げると、大きな鳶がゆっくりと円を描... 続きを読む »

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フッフッと息があがる。 見上げると、繊細な切り絵のような冬の梢の向こうに山頂が見えた。 「あと少し・・・」 自分に言い聞かせるように、つぶやきながら、ジグザグに上がる山道の角を曲がる。 地元の、登山というよりハイキングと言ったほうがよいくらいの低山... 続きを読む »

未明の街は、暗い家々に薄っすらと粉雪が積もり、たっぷりと粉砂糖をふりかけたガトーショコラみたいだ。 定刻を15分過ぎて駅を出た特急列車の車内は、通勤客がほとんどで、静寂の中、乗客のひそやかな息遣いが微かな空気のゆらぎとして感じられる。 8号車の2A。 ... 続きを読む »