フッフッと息があがる。
見上げると、繊細な切り絵のような冬の梢の向こうに山頂が見えた。
「あと少し・・・」
自分に言い聞かせるように、つぶやきながら、ジグザグに上がる山道の角を曲がる。

地元の、登山というよりハイキングと言ったほうがよいくらいの低山。
標高500mにも満たないが、それでも、山頂の360度邪魔するもののない見晴らしの良さは十分な満足感を与えてくれる。

東に恵那山、西に伊吹山。
北には能郷白山、御岳、南アルプスの山々が並び、運が良ければ槍ヶ岳の尖った先端も見える。
南には犬山城、小牧城の先に名古屋のタワーズ、名古屋港の海に浮かぶタンカーも微かに見える。

休日に独りこの山を歩く時、日頃の運動不足にキレの悪いカラダの束縛を感じつつ、ココロは、山と自分の境界線が溶けていって、うんと遠いところまで拡散し、開放されていくのを感じている。

それにしても、今日は誰にも会わないな。
山頂の見晴らしの良さや、東西にいくつもの低山が連なりちょっとした縦走コースにもなることから、いつもなら小学生から昔取った杵柄のご老体まで、意外と多くの人に会うのだが。
今日は麓の神社の参拝客以外、まだ人影を見ていない。

足元で落ち葉がカサリカサリと小さく鳴り、乾いた土の香りがする。
どこかでフィー・・・フィー・・・と寂しい鳥が鳴いている。
乾いた土に落ちる冬の影は薄い。

歩きはじめには、独りの胸の中に色々な想念が駆け巡るが、山頂手前の急坂に差し掛かる頃には、からっぽになったこころに音と色と風が流れていく。

不意に陽が陰り、音も色も風もサッとスモークグレーの半透明な影に覆われ消える。

「宇宙にひとり」

影の中に、脈絡もなく、言葉が立ち現れる。

いつか、友と独りを楽しむことについて話していた時だった。
「孤独であること」も楽しいのだということを理解してくれる人がなかなかいないのだと愚痴ったら、友がポツリと、そしてキッパリと言った。

「宇宙にひとり」

真に孤独を愛せる人がいるが目の前にいる。
自分が自分であることを、他人ヒト他人ヒトであることを、尊重できる人。

山道はさらに急になり、大きな岩の段差をぐいっと登る。
宇宙が近づく。
さぁ、この茂みを抜けたら山頂だ。

頂に出たその時、陽が雲を抜け、光に目が眩んだ。
いま、私は宇宙にひとり、在る。
高く青い空が、その孤独を証明してくれている。

未明の街は、暗い家々に薄っすらと粉雪が積もり、たっぷりと粉砂糖をふりかけたガトーショコラみたいだ。 定刻を15分過ぎて駅を出た特急列車の車内は、通勤客がほとんどで、静寂の中、乗客のひそやかな息遣いが微かな空気のゆらぎとして感じられる。

8号車の2A。
最後尾車両の前の方の席で、自動ドアの上には、先頭車両に取り付けられたカメラの映像が映し出されるモニターが付いていて、線路が時に一直線に、時に緩やかなカーブを描き、周囲の景色が現れては消えていく。白い雪景色なので、カラーなのかモノクロなのか、判然としない。
ぼんやりとモニターを眺めていると、線路が長く一直線に延びる区間に差しかかった。線路のすぐ横を細い道が並行して延びている。道と線路の両側に広がるのは、四角いガトーショコラの畑。時折、ポツリポツリと建つケーキの飾りのような家がヒューンと飛んでいく。

延々と変わらぬモノクロの景色。
ふと、線路と並行に延びる道の上を自転車が走ってくるのに気がついた。

白いレインコートが三角錐に広がり、風になびいている。その頂点に丸く空いた穴の奥の顔は暗く、小さなモニターの中では、黒い点にしか見えない。あっという間に近づいてきて、あっという間に画面の外へと消えていった。白い道路に黒い筋が残っている。

まだ薄暗い中、ライトも点けず、どこに行くのか。
滑らぬように注意深く自転車を操る緊張が、レインコートの三角錐の形に現れていた。
レインコートが風を切る音が聞こえたような気がして、ぶるっとカラダが震えた。

モニターから目を離し、窓の外、電車の後方、自転車が去っていった方向に目をやる。もちろん、とっくに自転車は見えなくなっている。

再びモニターに目を向けて、再びカラダがぶるっと震えた。

小さな白いゴマ粒のような点があっという間に近づいてきて、三角錐のレインコートと自転車になり、消えていく。うつむき加減の顔はやはり暗い穴のようにしか見えないが、強張った緊張感は、先ほどの自転車と全く同じだ。

じっとモニターを見つめる。
遠くにまた点が現れる。
近づいてくる。近づいてくる。

白い三角錐と黒い車輪。暗い穴が過ぎ去る。

じっとモニターを見つめる。
再び点が現れる。
近づいてきては、あっという間に過ぎ去る白い三角錐と黒い車輪。暗い穴。
繰り返しモニターの中を過ぎていく。

そういえば、この直線はこんなに長く続くのだったっけ?

列車内に他の乗客のかすかな息遣いやみじろぎも感じられなくなっている。

モノクロのモニターと同じように、無機質な静寂の中。

それでも少しづつ夜は明けて、空の明るさは増している。

モニターの中で、何度も何度も通り過ぎていく自転車の上の暗い穴の奥の顔も、陽に照らせれるようになるのだろうか。

私はどこまでこの電車に乗っていくのだろう。
あの自転車はどこまで時を遡るのだろう。
何度、時は巡るのだろう。