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8月に帰省してから1か月半。山は秋色に染まり、晩秋の風は、すでに冬の冷たさを内包している。
僕は黄金色の稲田の上を乾いた風が渡る中、ゆっくりと愛用のスカイブルーのロードレーサーを走らせていた。
ロードレーサーを走らせるのは久しぶりだった。ぐっとペダルを踏み込むたびに、太ももがギュッと引き締まる感覚が心地よい。
顔を上げて、光の粒が見えるような鮮烈な秋の光を楽しみながら走りたいところだが、視線を道路の地平より上には上げられない。
目指している方向には、田口が転落したあの山がある。

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夏の間、強い日差しに照らされた道は、毎夜の夢の中の白く輝く道と重なり、僕は外に出ることができなかった。
8月に帰省してから、あの夢を繰り返し繰り返し見る。眠りは浅くなり、食欲もない。買い物に出る気にもなれなくて、借りている住居の大家さんが持ってきてくれる野菜やお惣菜で食いつないでいた。
田口の転落事故の後は、痩せた僕を心配しながら、時々、控えめにそっと、夕飯を食べに来いと誘ってくれる。

僕は、山好きが高じて、5年前に東京から移住して以来、農家の離れ家を借りていた。
仕事はWebサイトやアプリのデザイン制作とプログラミングが主で、カタチとしてはフリーに転じたとはいうものの、東京で勤めていた会社から半分社員のような感じで仕事を請け負っていて、他の仕事も東京時代の伝手で、特に積極的に営業活動をする必要もなく、部屋に引きこもっていても仕事をすることができた。
この1週間ほどはかなりタイトなスケジュールのシステム改変の案件がいくつか重なり、さすがに疲れがたまり、短い眠りの中であの夢を見なくて済むのがありがたかった。

夜明け前、かなりタイトなスケジュールのシステム改変の案件を無事納品して、さすがに新鮮な空気を吸い込みたくなり、外に出た。
わずかに明るさを感じる瑠璃紺るりこんの空。遠い山並みと広がる田畑は黒々とした陰の塊のまま。ぽつりぽつりと灯る小さな街灯の光は、蛍の光よりも頼りなく見える。
静まりかえった陰の風景を眺めているうちに、あの黒曜石の門が遠くに見えてくるような気がして、ブルッと身体を震わせた。
部屋に戻ろうと、意識的に見ないようにしていた田口が転落した山の方角に、すっと視線を流した時、やけに低い場所にずいぶんと明るく輝く星が見えた。振り返って、しっかり見直すと、星ではなくて、田畑の向こうにある低山の山頂に近いところにある家の灯りのようだった。少し赤みがかかった暖かさを感じるような灯りだ。
その山を越えたところに温泉があり、何度か峠を越したことがあるのだが、あんなところに家があっただろうか。
何度も眺めた夜景だが、その灯火を今までに見たことはなかった。
なぜそんなにあの灯火が気になるんだろうと、自分でも首をかしげつつ、部屋に戻った。

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部屋に戻ってから一寝入ひとねいりしただけのつもりが、起きたらすでに昼近かった。
外に出て、昨日灯りを見た低山を眺める。よく見るとわずかに赤みがかった色の屋根の一部が樹々の中に埋もれている。
温泉通いの峠道よりも少し南に寄っているようだ。脇道を入るのだろう。

「今、おはようかねー」
大家のおじさんが日焼けした黒い顔をクシャッとさせながら笑っている。
「はは、おはようございます。っていうか、もうこんにちはですね。」
「採ってきたプルーン持ってって。ほら、大きいの選んだらいいから。」
渡されたビニール袋に、水色の集荷用のカゴにはいったプルーンを入れながら、ふと、尋ねてみた。
「あの山の峠付近に家なんてありましたっけ?今朝、夜明け前に灯りが見えたんだけど、峠道に家なんてなかったような気がして。」
「ああ、あれは昔、陶芸家の人が住んでいた家に、なんか名古屋の方から若い人が来たって話だよ。一人で本を作ってるとか・・・」
「本を・・・作ってる?出版ってことですか?それとも手作りで装丁とか?」
「さぁなぁ。噂で聞いただけだから、詳しいことは分からないけど・・・」

「本を作っている」というのが、どういうことなのか判然としない。ZINEジンのような自主制作の冊子のようなものなのか、それともアーティスティックな装丁でもやっているのか、こんな田舎ではフリーの編集者とかってことはないだろう。
僕は無性にその「本」を見たくなった。田口の事故以来、自分から主体的に何かをしたくなったのは初めてだった。

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そして、僕は今、スカイブルーのロードレーサーをゆるゆると漕ぎながら、山中の赤い屋根をめざしている。
アポイントもなしで。誰かが、何かが、僕を待っているわけでもないのに。
その山の更に奥に聳える山までは見えないように、視線を伏せながら。

「手 第3章」へ続く(10月中に公開予定)>>